オランダ 1953年の大洪水 歴史の勉強をしてきました

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オランダはその国名の通り「低地の国」です。海面よりも低いところが国土の約1/4を占めています。そのため何世紀もの間、オランダの低地では暴風雨による高潮や洪水にひどく悩まされていました。

文献には西暦900年から1900年の間に124回もの水害の記録が残っているそうです。17世紀になるとその数は途方もなく多くなり、その後18世紀は比較的穏やかだったものの、19世紀にはまたその数は増加したとのことです。

データによると、オランダ人ならほとんど誰でもが知っている20世紀の洪水は 1906年、1911年、1916年、そして 1953年にありました。そして、特に 1953年の大洪水は、オランダにおける人々の記憶に残っている最後の、そして最も大規模な洪水といえるでしょう。

第二次世界大戦後のオランダ南西部にある多くの堤防は良い状態ではありませんでした。戦争で傷ついたのは人や町、建物ばかりではなく、堤防も大きなダメージを受けました。

終戦後は、他のたくさんのことに優先順位があったため、それら傷ついた堤防に対して、ほとんど補強や改善もなされず、また簡単な補修さえも行われなかったようです。

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De watersnood van 1953

オランダの学校で習う 1953年の大洪水の歴史。ゼーラント州(Zeeland)にあるオウエケルク(Ouwerkerk)という人口高々600人余りの小さな村のはずれにはその資料館(Watersnoodmuseum)があります。

De caissons bij Ouwerkerk zijn een tastbare herinnering aan de watersnoodramp van 1953. In dat jaar werden de vier caissons gebruikt om het allerlaatste dijkgat in het rampgebied te dichten. In een van deze caissons is het Museum Watersnood 1953 gevestigd. Een museum als een plaats voor herinnering. En een plek om de historie door te geven aan de volgende generaties. In dit museum vindt u een overzicht van de gebeurtenissen voor, tijdens en na de ramp.

「オウエケルク(Ouwerkerk)村のはずれにあるケーソンは、1953年に発生した大洪水の実在する回想物です。その年、大惨事が起きた地域の堤防の最後の崩壊部分を閉じるために4つのケーソンが使われました。これらケーソンのうちの一つに、1953年の大洪水の資料館があります。この資料館は記録・記憶を残す場所、そして歴史を後世へ伝えるための現場として作られたものです。この資料館ではこの大惨事の前、大惨事の真っ最中、そして発生後の出来事の大要を掴むことができます。」

資料館の入口:

caisson は英語でも caisson 、日本語でもケーソンと言います。水中の基礎工事用ケーソン、潜函(せんかん)、(沈没船浮揚用)浮き箱、(破損船体に水を通さないための)隔離室、というようなものです。


ケーソンのモデル。この中に大量の石を詰め、海に固定します。

外から見た資料館:

大洪水の状況:

1953年 1月 31日土曜日、昼間のうちにオランダ気象台は強風警報を出し、そしてその日の遅くにさらに危険な高潮警報を発令。その日の晩、引き潮になる時刻になっても海面の高さは下がる気配が全く見られなかったようです。

しかしながら、引き潮」にならないことは過去に何度も発生していたようで、多くの人々はまだ危険な状態にあるとは思わなかったとのことです。さらに古くからの言い伝えで「引き潮にならなければ、高潮は来ない」というのがあったようで、全てがうまくいくと思われていました。

でも、この時は全く異なった状況になりました。夜になって低気圧はさらに発達し、海水は北海から狭いところに集中してうち上げられ、堤防を何度も強打しました。

夜半になて堤防が少しずつ決壊し始めました。最初は弱く、低いものから、そして強固な海堤防もそれに引き続きました。そして、とうとう海水が干拓地にどっと流れ込んできました。

翌日の日曜の朝になって、ようやくオランダ南西部が未曾有の大災害に見舞われたという事実が、徐々に人々の間に知れ渡ってきました。夜が明けると最初の被災者たちが到着。そして彼らから大災害の様子が少しずつ伝えられ始め、それによって急速に被災者たちの受け入れ体制がとられるようになりました。

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そのころ洪水に見舞われた地域では、人々はまだ屋根に上ったり、屋根裏部屋にいたり、木や電話線の柱によじ登ったり、残った堤防に登っていたりしていました。

漁師やボート所有者たちが自分たちのボートを使って人々を救助していました。周辺地域からの救援の申し出はほとんどなく、電話設備の消失、そして救援物資の不足なども障害となって、救援活動はなかなか進みませんでした。さらに不幸なことにその日は日曜日だったため、行政当局や政府関係機関とはほとんで連絡が取れなかったとのことです。

その日曜日一日中、スハウウェン=ドイフェラント(Schouwen-Duiveland)からは何のニュースも聞こえて来なかったし、メディアは何の注意も払いませんでした。

外部からの救助も全く始まらなかったようですが、Zierikzee のアマチュア無線家たちが Middelburg のアマチュア無線家たちとコンタクトすることに成功。その時になってようやく、大災害の実際の規模が明らかになりました。事実上、スハウウェン=ドイフェラントの島全体が海の下に消えてしまったらしいということを。

被害の状況:

犠牲者数は 1835人、そして 10万人以上が家や家財を消失。また 20万以上の家畜(牛、馬、豚、鶏、アヒルなど)も犠牲になりました。また、20万ヘクタール余りが水に浸かりました。

水に浸かった地域:

当時のニュース:

WATERSNOOD: Zo zag de ramp van 1953 eruit

堤防の修復:

たくさんの堤防決壊箇所を修復しなければならなかったが、その数の多さのために完了までは数ヶ月を必要とするところもありました。500km 以上の堤防が修復されました。排水、土地の乾燥は大変迅速に進み、2月1日に水に浸かったところは 20万ヘクタールだったが、2ヵ月後には残り8万ヘクタールになりました。

1953年11月6日深夜に、アウエケルクの近くの最後の堤防決壊箇所が巨大なケーソンで閉じられ、災害地最後のポルダーでの干拓がようやく始まりました。

この水害を契機にオランダの水害対策デルタ計画(De Deltawerken)が加速されました。今では大きく強固な可動堰や水門に守られて安心して暮らせるようになっています。

Watersnoodmuseum へは車で行くのが一番便利ですが、バスを使って行くことも可能です。資料館の前にあるバス停の時刻表を見る限り、月曜から金曜だけ、昼間の二時間おきに一日4本という田舎のバスの運行本数です。資料館と天気が良ければ周りを少し散歩してきれいな景色を眺めることで二時間はあっという間に経ってしまうでしょう。

De Deltaroute:

また、De Deltaroute(デルタ街道)という車のルートがあって、デルタ計画によって建設された可動堰や水門を見て回ることができます。この辺りは景色も素晴らしく、ドライブには最適です。

Zeeland の地図:

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コメント

  1. 数百年に一度の水害に備える ~オランダの堤防と治水 – YUME NET より:

    […] らのサイトで詳しく紹介されています。 Josnoオランダ講座 『オランダ 1953年の大洪水 歴史の勉強をしてきました』 […]